A 年 待降節 待降節第1主日 2007年12月2日 イザヤ2章1−5節、 ローマ人への手紙13章11−14節、 マタイ24章37−44節 世界中で話されるあらゆる言葉の中で、度々繰り返される言葉が幾つかあります。 その中の一つが、待つと言う動詞です。 バスを待つ、電話を待つ、手紙を待つなどが普通によく使われる3つの待つことではないでしょうか。 ところで、子供の誕生を待つと言うことは、全く別の事柄です。 若い婦人にとって、子供を待っているという事は、彼女の今の生き方が、彼女の全生涯を変えてしまい、愛する赤ちゃんを自分の腕に抱けると、期待することだと知る事です。 誰かを迎える待ちかたが色々あるのをご存知でしょう。 ドアを開けてその人を外に待たせておくことが出来ます。 または、その人を玄関に入らせて、ちょっとの間、立ったまま待たせておくことも出来ます。 それから、中に入るように勧めて、お茶を出して、暫く話すことも出来ます。 しかし、親しい友達に対しては、この友達が何も足りないものがなく、心地よいと感じるように、自分の日常の習慣が無茶苦茶になるのも、また不自由に感じるのも、厭いません。 待降節の時期は待つ者にとってこの上ない時です。 来られるお方を待つとは、私達に欠けている何かを、特にどなたかを、識別し、望む状態に自分を置く事です。 待降節の4週間は、私達にとって、キリストの到来を強く望むことを学ぶ時です。 ですから、教会は神へのこの望みをしっかりと刻み込んだ、素晴しい詩篇を私達に与えてくれます。 例えば、詩篇63の2節では「神よ、あなたは私の神。 夜明けから、私はあなたを捜し求め、私の魂はあなたを乾き求めます。 あなたを待って私の体は、乾ききった大地のように、衰え、水のない地のように、乾き果てています。」と私達に語り、詩篇42の2節で、「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。」と歌います。 初代キリスト者のこの素晴しい叫びは、待降節の時にとてもよく合います。 それは「マラナタ」つまり「主よ、来てください」です。 そうです、主よ。 私達を救い、変え、勇気と力を取り戻す為に来て下さい。 それは神をもっとよく愛し、賛美する為です! イエスの到来は私達の生きている理由であることを私達は知っています。 しかしこの待降節の間、教会は唯待つことだけを求めず、さらに、目覚めて待っている事を求めます。 目覚めて待つとは、当然、普通は私達が眠っている時なのに、断固として待ち続けることです。 ですから活動的に生き生きと待つことで、私達の魂のなかに、イエスに場所をとって、全部与えることです。 彼が私たちの処で自分のところにいると感じなければなりませんし、その為には、多分、彼を不快にさせるものを全部除く為に大掃除をしなければならないでしょう。 これは聖パウロがローマ人への手紙13章12節で、「闇の業を捨て・・・・・罪であるもの全て、罪の機会を投げ捨てよ」と勧めていることす。 また彼は、私達が来られる方を受け入れる心の準備が出来るように、祈りなさいと招いています。 この時期の殆ど毎日曜日に、私たちが聞く勧めはこれです。 「私があなたにいうことは、皆さんに言うことです。 気をつけていなさい、目覚めなさい!」 聖書の言葉では、準備できているとは、いつも現存される神に向き合っていることですが、その現存は死の時には非常に特別なやり方で示されます。 私達の問題は、死に直面しての苦悶でもなければ、イエスが私達を迎えに何時来られるかを知らない事でもありません。 私達の問題は、むしろ、習慣、倦怠、退屈、眠気にあります。 望みの時、期待の時、待降節の時を与えることで、教会は私達に預言者イザヤ、洗礼者ヨハネの望み、ザカリヤ、エリザベト、シメオンとアンナ、特にマリアとヨゼフの期待を私達のものとするように、誘います。 彼らと共に、「天よ、露を滴らせよ。 雲よ、正義を注げ。」と祈りましょう。 このミサ祭儀が私達に教会と共に次の様に言う喜びを感じさせますように。 「主、イエス、来て下さい。 あなたの到来を待っています。」 アーメン。 待降節第2主日 2007年12月9日 イザヤ11章1−10節 ローマ人への手紙15章4−9節 マタイ3章1−12節 預言者イザヤの心はその名を「エンマヌエル」(神は私達と共に)という「子供である王」、「救い主」の宣言で喜びに満たされていました。 この子供の上には、霊の賜物の充満が注がれ、その統治は罪によって乱れた調和を復元することです。 それはユ−トピアのように見えます。 が、これは神ご自身の約束です。 この理想的な世界は、イザヤが垣間見せていて、実現するかどうかは私達によります。 それは聖パウロが私達に忠告しているように、一致のうちに共に留まることを、いかに配慮するかです。 キリストと共に、また同じ信仰を分かち合っている兄弟姉妹と共に一つに留まりなさい。 人類に対する神のこのご計画の成功に対立する障害は、嫉妬であり、不和であり、赦しの拒否です。 イザヤは神の統治の理想的な光景を描いています。 しかし福音は全く異なる他の鐘の音を私たちに聞かせます。 3世紀以来、イスラエルには全く預言者はいなかったのに、突然、ヨルダンの谷に、紀元28年ごろに、聖霊に満たされた一人の人が現れました。 彼の名は洗礼者ヨハネで、砂漠に現れ、間近に迫った大変動を宣言します。 彼はヨルダン川の水で清めて、準備しなさいと人々に呼びかけました。 しかし洗礼者ヨハネは群集を引きつける事は何もしませんでした。 彼の言葉は厳しく、怒りっぽくて、乱暴で、脅迫的でした。 彼は「マムシの子孫よ! 来るべき神の怒りから逃れるようにと、誰がお前たちに教えたのか? 悔い改めに相応しい実を結べ・・・」と叫びました。 洗礼者ヨハネにとって、救い主は、イザヤが約束した理想的な世界を実現しに来られたのではなく、救い主は、むしろ、神の裁きと罰をもたらすはずでした。 彼にとって、救い主の到来は、根本的な改心を求めます。 改心を拒絶する人々は皆、注意しなさい、と彼は言います。 イザヤが予告した新しい世界を神が決定的に実現するには、先ず、私達が「改心しなさい!」と言う洗礼者ヨハネの叫びを聞き、実現しなければなりません。 待降節は真理の時であり、決定の時であり、神に向かう完全な決意の時です。 罪びとであると自覚する事は、つまり、神のいろいろな配慮を私達が殆ど気にしないと告白する事で、これが心を変えようと望むことの始まりです。 即ち、神なしには、私たちの生き方は実を結ぶことが出来ないと認める事です。 私たちの考え、行い、祈りの中に神の絶え間のない現存がなければ、自己愛、利己主義と傲慢のとりこになってしまいます。 というのは、人は自分自身にしか支えを見出さないからです。 赦しの秘蹟による真正の改心は、まさに、パウロが今日の書簡の中で語っている実りを作り出します。 洗礼者ヨハネは洞察力に富み、忠実に宗教的規則を実行しているから良い信者だと信じる者や、神に対して問題がないという宗教的偽善者を告発しました。 結局、改心する必要がないと信じること、自分の心を変える必要がないということは偽善です。 私達のうちで、誰一人として罪がないといえるものはありません。 しかし、謙遜と信頼で、私達は罪人であり、自分で自分を救う事は不可能であると認める事が出来るようになります。 そういうわけで、私たちの共同体は「ユーカリスティ」と呼ばれます。 この言葉は、「感謝する」の意味で、感謝、感謝の念、神への賛美、私達の父、御子によって私達を罪の奴隷から開放される父、私たちを救い, 私たちを聖化し、私たちを彼において、彼のうちに一致させる父・・・・・ キリスト者の集会である教会に背をむけ、他の人達の祈りは必要がないと信じることは、救いが自分で実現できると思い、幻覚に捕らわれる事です。 それはキリストの十字架の値打ちを否定する事です。 ミサ祭儀はイエスの十字架の記念であり、私達がキリストの生きた体として現れるようにと、お互いに結び合うことです。 キリスト者の特徴は、未来を持っていることです。 彼らは細部にわたっては知りませんが、その命が、無に終わらない事を知っていて、希望を抱いています。 この希望は既に新しい命を与えています。 私の命はキリストであり、彼によって、私たちの存在はお互いに交わっています。 どんなキリスト者も一人で生きることはなく、一人で罪を犯すこともなく、一人で救われる事もありません。 私が考え、話し、行ない、実現する事によって、他の人の命はずっと引き続いて私の命に入ってきます。 そして反対に、私の生き方は、善に対しても、悪に対しても、他の人の生き方に入っていきます。 クリスマスにイエスを受けるために、私たちの人生のこの広がりを、再発見する事を学ばなければなりません。 自分自身のために生きる人はありませんし、自分自身のために死ぬ人もありません。 私たちの人生は、イエス・キリストと共に、神のうちに、隠されています。 洗礼者ヨハネの改心への呼びかけは、私達一人ひとりに向けられた個人的な呼びかけです。 この待降節に、私達は特に、この呼びかけを聞き分けましょう。 ア−メン。 待降節第3主日 2007年12月16日 イザヤ35章1−10節 ヤコブの手紙5章7−10節 マタイ11章2−11節 牢獄にいた洗礼者ヨハネはキリストの業について話されるのを色々聞きました。 しかしそれらは、洗礼者ヨハネが宣言した事ではありませんでした。 彼は疑い、不安になりました。 イエスは神の罰をもたらそうと、手に斧を持って審判するのではなく、彼は心の柔和で謙遜な人でした。 疑いもなく、洗礼者ヨハネは救い主は自分の抱いているイメ−ジとそんなに違わないと信じていました。 そのイメ−ジとは、悔悛の色を示さない罪人みんなを、神の怒りの一撃のもとに、根こそぎにすることでした。 また彼は自分の弟子たちに一つのアンケートをするように求めました。 「あなたは来るべきお方ですか? それとも、私達は他の方を待たなければなりませんか?」というアンケートです。 この質問は、洗礼者ヨハネの失望と焦慮を表しています。 ヨハネは、王の破廉恥な不倫を告発する勇気があったために、捕らえられ、投獄されました。 彼は間もなく処刑されるでしょう。 何故イエスは何もしないのでしょうか? 救い主の特徴は、捕われた人を開放することです。 ところで、何故イエスは洗礼者ヨハネを、ヘロデの牢獄の中に捨てておくのでしょうか? 神は面狂わせます。 彼は私たちをしばしば落胆させます。 彼は私たちが想像するようではありません。 彼は私達の期待に答えません。 神は度々私達を深く満たされないままに捨て置かれます。 ヨハネは弟子たちから、イエスがご自分の使命を果たされるやり方を知らされていました。 洗礼者ヨハネは印と証によって答えを受けていました。 さて、彼は捕らわれから自由になるでしょうが、全能の救い主によってではありません。 しかし、十字架上における救い主ご自身の間近い死と一つになる彼自身の死を承諾して自由になります。 もう少し後で、先ず、ステファノが、続いて一人また一人と使徒たちが、つまり、ヤコブ、ペトロ、パウロと何千もの他の人達が、捕らえられ、拷問され、処刑されました・・・・・しかし彼らは、反抗することなく,火の聖霊に支えられて死ぬでしょう。 この聖霊はイエスがみ言葉と、引き渡されて体となるパンとによって、彼らに分かち与えられたものです。 彼らがキリストの体を受けたからこそ、初代のキリスト者たちは、苦悩のうちに、残虐な苦しみと涙のうちに、真理のために、彼らの体と命を与えることが出来ました。 救い主はそこにおられ、確かに解放が始まり、神の王国は始められました。 神の王国の印は、全然劇的ではなく、注目を引くこともなく、自然な調子で行なわれました。 神もイエス・キリストも、派手な業で自分を現されることはなく、救済の業で示されました。 神の統治が始まったと言う真実の印は、愛の印であり、私達は他のものを待つべきではありません。 ヨハネの使者達に、イエスは、洗礼者ヨハネが予言した事は実現したが、彼が予想したような歩みによってではないと答えられました。 というのは、神の意思と人の意思との間には、いつも隔たりがあるからです。 救い主は罰する為ではなく、人に神の愛を告げるためにおられます。 洗礼者ヨハネの使命は役に立たないものではありませんでした。 改心への呼びかけによって人々の心を開き、主の道を大変良く準備しました。 しかし神の王国は、力で無理に来るものではなく、愛によって差し出されるものです。 神の王国は人の心のためで、絶えず改心するように招いています。 洗礼者ヨハネの弟子たちに、イエスは「あなたがたが聞き, 見た事をヨハネのところへ持ち帰りなさい」と答えられました。 イエスは見ると聞くという二つの動詞を強調されます。 イエスは目の見えない人に視力を与え、耳の聞こえない人に聴力を与えられ、神の国の到来をこれによって表されました。 というのは、イエスが私達にもたらされ、また啓示された永遠の命は、実に、このような事、見る事と聞く事で構成されているからです! 「私たちが聞き、目で見、見つめ・・・・・私たちが見たこと、聞いたことを、あなた方に伝えるのは・・・」(ヨハネ第一の手紙1章1−3節) 天において、私達は永遠に神を見るでしょう。そうして、命の言葉を聴くでしょう! イエスは救い主でしょうか? 何故ミサに行くのでしょうか? 質問は同じ、答えも同じです。 イエス、救い主、教会は唯一の同じ愛の神秘です。 日曜日のつまらない、惨めなミサは神が私たちに見せるために、聞かせるために与えて下さった偉大な印です。 ミサなしには教会は無に等しく、ミサなしには世界は破滅に向かって走る事になります。 私たちの問題を全て解決する教会、権力があって、お金持ちで、印象深い教会を教会だと思い描かないで下さい。 イエスのように教会も、殆ど馬鹿げた印で同じ事を達成します。 この印は秘蹟で、洗礼、聖体、堅信、罪の赦し、結婚、叙階、病人の塗油です。 これが例え私たちにとって古臭いと思われても、今日、見たり、聞いたりしなければならない印です。 神はいつも私たちの道に度々不器用であったり、欠点で一杯の証人をおかれます。 しかし彼らだけがキリストの誕生、その生涯、その死、その復活を祝祭によって、私達に分からせる事ができます。 それは神が見る事と、聞く事で、私達に与えられる偉大な印です。 一つ一つのミサで、私たちは神の永遠の愛の中に沈み込みます。 一つ一つのミサは、神のこの愛について、私達が見たり、聞いたり、味わったりしたことを、世界に宣言する為の証人とならせます。 アーメン 待降節第4主日 2007年12月23日 イザヤ7章10−16節 ローマ人への手紙1章1−7節 マタイ1章18−23節 降節の最後の日曜日に、私達の眼差しは、お生まれになるイエスの両親に注がれます。 それは、ヨセフとマリアです。 私たちの人間としての立場に非常に近い一つのカップルです。 まず、15才から20才の間の二人の若者です。 彼らは夫婦になる為に、一緒に素晴しい計画を立てています。 どんな婚約者も過ごす幸せな時を味わっている、幸福な婚約者です。 こんな時に苦しみが訪れました。 正しい人であるヨセフは、彼が立てたのではない計画に、神がマリアを選ばれた事を知りました。 彼が抱いていた幸福の夢はすべて飛び散ってしまいました。 その時ヨセフは精神的な大きな苦しみを経験しました。 彼は自分が占めている場所をすべて神に譲るために、謙遜にマリアと別れる決心をしました。 ヨセフは誰にも迷惑をかけないように、このようにしました。 このヨセフの振る舞いと繊細さは彼が本当に正しい人であった事を示しています。 度々ヨセフのように、私たちも思いがけない立場、私達が選んだのではないどうにもならない状態に陥ることがあります。(病気、事故、愛する人の急死、失業など・・・) その時、私達は神を忘れてしまい、神は私たちを憐れまないと非難します。 私達の人間的な問題すべての解決は、ヨセフの場合のように、神の内にしかありません。 ヨセフは謙遜で正しい人でしたから、彼は避けがたい事を罰とか、運命とかではなく、神の愛の印として受けました。 ですから神は直ぐに介入されました。 神は彼が自分の計画どおりにしないように求められるだけではなく、その上、二つの使命を委ねられました。 まず第一に、マリアを妻として自分のところに受け入れる事、第二に、子供に名前をつけることです。 つまり、この子供の法律上の父としての責任を引き受ける事です。 両親にとって、子供を養子にすることは、自分たちの体から生まれたものとして受け入れる事です。 ヨセフが生きていた時代には、養子縁組は今日よりももっと重大な事でした。 天使の告げの後ヨセフは、大急ぎで実行に移しました。 残念な事に、今日の福音のこの箇所の終わりは削られていますが、24節に「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」と述べられています。 この様にして、ヨセフはあらためて、彼に対する神のお望みにしっかりと適う、正しい人である事を示しました。 ヨセフの従順の態度は、私達のものでなければなりません。 これは聖性に向かう最も確実な道です。 マリアの子イエスを養子にすることで、ヨセフは彼の本当の父となりましたが、これは神の恵みによってです。 聖パウロはその手紙の一つの中で、私たちをご自分の子供として養子にされた神について「イエス・キリストによって神の子にしようと、み心のままに前もってお定めになったのです」(エフェゾ1章5節)と述べています。 この意味でヨセフは、正しく、謙遜で、思いやり深い父である神のイメージです。 ヨセフとマリアの話しの中で、マリアは聖霊のお陰で子供を宿したと明言しています。 これは私たちを無限に超える業に対する神の署名です。 聖パウロと同様に、聖ペトロも私達が聖霊によって生まれたことを「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ・・・」(1ペトロ1章3節)と述べています。 神の子としての教会の懐の中の私達の誕生は、イエスの誕生と同じです。 信仰によって、彼と同様に私達は神の子であると同時に、人の子、御父の子、マリアの子です。 私達の本当の家族、それはキリストの教会です。 マタイの福音は私達に聖書が絶えず示しているものを思い出させます。 人類の歴史全体にわたって、救いの業を実現する為に神は私たちを必要とされます。 神は全部をお独りでしようとは望まれません。 そういうわけで、私達の計画を妨げる出来事は、神が具体的な助けを求めておられる印しです。 私達一人ひとりには、神の王国の到来の為に果たすべき役割があります。 私たちの生き方の中に、イエスを受け入れる事は、私たちの存在すべてを、私達に対する神のお望みに、ぴったりくっつけようと望むことです。 人生のあらゆる局面において、神のお望みを行なおうと受け入れる時、クリスマスは人間にとって平和の泉となるでしょう。 アーメン 。 主の降誕 徹夜ミサ 2007年12月24日 イザヤ9章1−3,5,6節 テトスへの手紙2章11−14節 ルカ2章1−14節 創世記の第1行目には、闇に覆われた、混沌の世界が示されています。 「光あれ」これは聖書の中で神の最初の言葉であり、光は神の第一の創造です。 「神は光を見て、良しとされた」と聖書は付け加えています。 というのは神ご自身が光であり、命の光だからです。 クリスマスもまた、光の祝日、命の祝日です。 2700年前、預言者イザヤは、この夜に祝う事を宣言しました。 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた・・・ひとりのみどりごが、私達の為に生まれた。 ひとりの男の子が私達に与えられた・・・その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とイザヤ9章1、5節に述べられています。 イエスは闇が最も深い夜中にお生まれになりました。 神の栄光の光は天使を放射状に照らし、天から羊飼いの上に降りてきて、イエスの誕生が新しい創造の始まりであると啓示しました。 世の光であるキリストは、人のいる所がどんな暗闇であろうとも、キリストの光がそれを散らしに来られるという確信を私達にもたらしました。 イエスは私達の人生を照らし、癒し、人生に平和をもたらすために生まれました。 それは私達の命にイエスが入られるのを許すという条件においてです。 飼い葉おけの中で、くるまれて、寝かされたイエスは私達と共におられる神です。 驚くべきことです。 待たれていた救い主、平和の君は王の宮殿に生まれるはずでした。 神の全能の現れを見ようと待っていた場所は馬小屋の中ではありません。 そして、まずこのニュ−スが羊飼いに告げられたのは何故でしょうか? この人達は教養もなければ教育もなく、ユダヤの法律で不浄な階級に置かれており、だから、不潔で、悪臭を放ち、泥棒であると考えられていたのです。 また彼らが一緒に生きている動物に似ていると思われていました。 福音はそのことがショックを与えたと強調しています。 「皆、不思議に思った」と書かれていますが、疑いもなく羊飼いたちこそ、その第一のものだったのでしょう。 理由は何でしょうか! イスラエルには、真面目な人、学者、聖書の専門家が充分います。 どうして天使は彼らに呼びかけなかったのでしょうか? そして動物の飼い葉おけに平気で新生児を置く両親を何と言えばよいのでしょうか! 神の誕生は一つの神秘、光の神秘です。 神のみ言葉の神秘です。 イエスの使徒で福音作家であるヨハネはいくらかの説明できない言葉を告げています。 「言葉は真の光で、すべての人を照らす・・・言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」とヨハネ1章に述べられています。 ベトレヘムの新生児は神ご自身でした。 人類を照らし、導く為に、何世紀もの間、太祖と預言者を通して、神は聞かせようと言葉を与えられました。 しかし、学者、律法学者、ファリサイ人は、この命の言葉を自分たちの心に置かずに、本、律法、読みづらい掟の中に封じ込めました。 今日、神は私達に肉になったみ言葉を与えます。 それは私たちがみ言葉を見たり、触れたり、心に抱きしめるためです。 このクリスマスの夜に、神は小さい者や謙虚な者に、ご自分の神秘を啓示されます。この時から神はイエス・キリストにおいて私達に話されます。 神は具体的に私達に話し、肉体的に人類の歴史の一部になられた事を示しました。 神は私達から遠く離れているのはもうたくさんうで、決して高い場所から私たちを見下ろしません。 いつも神は私たちの心に話すために近くにおられます。 世の創造の時からこのように決め、この考えを変えられません。 彼は忠実な神です。 不忠実によって神から遠ざかるのは私たちです。 神はいつも私達のとても近くに共におられます。 神はインマニュエル、即ち私たちと共におられる神で、それは一人ひとりが神の道連れ、友達、光の子となるためです。 毎年、クリスマスは私達の内に於ける神の現存の神秘をより深める機会を私達に与えます。 神とのこの永続的な関係なしには、充分に生きることが出来ない事を、クリスマスは私達に思い起こさせます。 神はそれをイエスの位格つまりペルソナで私達に示されます。 それは、「君の腕に私を抱きしめなさい! 私は君が必要なんだよ。 そして君も僕が必要だろう!」と私達に言う為です。 神が人間になられたのは、通りがかりに、ちょっと訪れようということではありません。 全く反対です。 彼は永遠に私達の内に住むために来られました。 クリスマスがただ単にイエスの誕生の記念日でないのは、そういうわけなのです。 クリスマスとは、私達の成功と喜びのうちに、しかし同時に、私達の失敗と苦しみのうちに、私たちと共に神が現存されるという良いニュースなのです。 その時、私達は皆、心をこめて神への感謝を叫び、イエスによって私たちに与えられる光と平和、永遠のみ言葉、命のみ言葉、肉となられたみ言葉を受け入れます。 アーメン。 四旬節第 四旬節第1主日 2008年2月10日 創世記2章7節ー3章7節 ローマの信徒への手紙5章12−19節 マタイ4章1−11節 昔、四旬節の時期には、断食、償い、犠牲など何をするかを知っていました。 しかし、第2バチカン公会議以来、規則は緩和され、多くのキリスト者は何をするかはっきりとよくは知りません。 皆、「疑わしい時は、沈黙を守れ」ということわざを適用して、全然何もしません。 しかしながら典礼は四旬節は恵の時、神の好意を得るのに良い時だと述べています・・・ そのとおりで、自分自身について考える事、神の前に、また、兄弟姉妹の前でも自分の本当の立場を取り直すためにとても良い時です。 人間である事は、自分の人生の方向を決めていくのに、多くの不都合があります。 幻想によって盲目となり、自分でしたいことをしながら、度々自分は絶対に間違えないスーパーマンだと信じ込み、またあるいは、失敗と弱さの中にはまり込み、自分自身に絶望します。 自分自身について考え、自分自身に光を当てる事は、四旬節に第一にするべき事だと私は思います。 目まぐるしい私達の生活の中で、私達は絶えず多くの誘惑に直面しています。 福音のなかで述べられている3つの誘惑はよい例です。 第1は、私達のうちにある霊的部分と私達に神を忘れさせる所有の誘惑、飲み食いの誘惑、持つと言う誘惑です。 ですから、私達が単に消費者であるかどうか、神に背を向けているものかどうか、魂の状態を心配するものであるかどうかを自問しましょう。 第2の誘惑は自分を見せる事です。 人の注目を集めるためとか、人に信仰を強制するために自分を良く見せるとかの誘惑です。 これは終わりのない戦いで、偽善的でうそつきの立場を保つか、または自分の傷つきやすさを見せるかです。 実際、これは本音と建前の戦いです。 この四旬節に私達は見せ掛けを止めましょう。 私達は真理の霊を受けました。 それは他の人を騙すためではなく、私達の内にある真理の光の充満を証しするためです。 第3の誘惑は権力の誘惑です。 他の人を支配したい思いが湧き出て、私達の足元に人を置きたいと望み、従属と服従のうちに人を縛り付けたいという誘惑です。 支配は関係を殺します。 これは悪魔的な誘惑です、というのは、これは他の人が実在するのをさえぎり、彼ら自身である事を妨げるからです。 今日の朗読は私達にこれを説明しようと試みています。 創世記の神は権力の神ではなく、福音のイエスは支配の神ではありません。 しかし二人とも「全能」の神です。 しかしながら彼らの全能は、柔和、慈しみ、赦し、忠実、忍耐などの強さです。 ただこの権力だけが生かし、愛する事を可能とします。 この四旬節の最中に、愛と慈しみのこの力のうちに生きるように努めましょう。 このことは、私達に、隣人を眺めるように勧めます。 神の愛のすべてが私達を兄弟に向かって導くように、隣人への愛は私達を神に近づけます。 神への愛と隣人への愛は、テニスやピンポンでの試合のように、互いに相手に向かって愛を投げ返します。 神と隣人の間を行ったり来たりするこの動きは私達に憐れみの心と聖霊の愛の力を与えます。 神に向かって、また私達の兄弟に向かって、歩き始めるには、ちょうど船が母港から出て行くために、まず錨を揚げなければならず、私達をつなぎ止め、麻痺させるものを剥ぎ取らねばなりません。 それは、怠惰、利己主義、偽善、偽り、好色、権力への渇望など・・・で、岸辺に私達をつなぎ止めるものすべてのリストは長いです。 兄弟、姉妹たち、四旬節の初めに、教会はイエスの名において、私達にこの忠告を与えます。 あなた方のもやい綱を解きなさい。 あなたを重くするものすべて、邪魔なものを船から捨てなさい。 あなたを重くする、土地に縛りつけるものをすべて捨てなさい。 神により近づくように、あなたの兄弟の必要を良く見分けるために、段々高く上がりなさい。 さあ、出発しましょう。 歩き始めなさい。 なぜなら今こそ、好い時期だからです。 今こそ救いの日だからです。 アーメン。 四旬節第二主日 2008年2月17日 主の変容 創世記 12,1−4 2テモテ1,8−10 マタイ17,1−9 アブラハムはもう年を取っていて、財産は豊かに持っていましたが、跡継ぎがありませんでした。神はすべてを捨てて、遠くの見知らぬ国へと出発するように、彼に勧めました。 アブラハムは神のみ言葉を信じて出発しました。 そんな彼の信仰に対して、約束の土地を与え、約束の息子、イザクを授けようと言われました。 これが神が私たちに変化させようと、軌道に乗せようと望まれる時のなさり方です。 彼は私たちに次のように言われます;「行きなさい、あなたを煩わせるものすべてを置いて・・そして私があなた方に準備する幸いに向かって出かけなさい」と。 もし私達が承諾するなら、自分自身の外へ、私たち自身を超えて押し出す動き、いわば、私たちを神に定着させ、神に変貌させる動きの中に入っていきます。 たとえば、福音は、神の呼びかけに対するイエスの答えを教えてくれます。 神がイエスにお任せになった使命に、完全に御自分を委ねられます。 30年の隠れた生活の後、ナザレトを去り、エルサレムへ、またカルワリオへと導く道を歩まれます。 しかしこの難しい道の果てに、試練と苦難を超えて、ご変容のうちに予見される神の栄光のうちに入られました。 前の日曜日、人としての彼の生き方の反対の選びをさせようとする誘惑に逢われるイエスを見ました。 イエスは神の子としての全権力を使わずに、人間の条件のうちに留まる事を選ばれました。イエスが手で掴み、目から涙を流し、苦しむ体と死ぬべき体を持つ一人の人間であったことは私たちと同様です。 ご受難の少し前、イエスは親しい友と一緒にいて、彼らの前で、神性の光のうちに変容するご自分の体を見せられました。 この神性のしるしは、天から来る雲と声によって、またモーセとエリヤの現存によって示されました。 この出来事は、キリスト教的信仰とは神が現存すると考える事だけではなく、神の栄光が一人の人間であるイエスの面影をおおう事を、肯定するように求める事でもあるわけです。 「わたしを見た者は父を見た」とイエスは使徒フィリップにおっしゃいました。 しかしそれはあらゆる人の面影を覆うものでもあります。 「私の望むよい事をしなさい。 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、私の栄光があなたと共にあり、あなたを守る。」と神は預言者イザヤに教えられました。 そして神は付け加えられます。 「あなたを包む闇は、真昼のようになる。」(イザヤ58章8−10節)と。 私たちの良い行いは私たちのうちに光を放出します。 というのは私たちは光であり善であられる神のイメージとして創られたからです。 聖パウロは第2コリント3章18節に「私たちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」と述べています。ですから光の子として生きながら、暗闇を追い払う事を学びましょう!」 「人が神となるために神は人となられました」と3世紀の聖イレネオは書きました。 ご変容は私たちの人間としての生き方を教えています。 友愛、愛、文化、美、正義、進歩などは、私たちにとって一つの意味をもっています。 しかし、私たちの周りには、沢山の理解できないことがあります。 苦しむ子供、死ぬ子供、住民の虐殺、多くの人を死に追いやる自然大災害など、どう考えればよいのでしょうか? 確かに、これらすべてのことには一つの意味があるのではないのか?と自問するなら・・・ 私たちの信仰からの答えは、イエスの答えそのものです。 人であるということは、たとえいかに壊れやすい人間であっても、お墓に納められて終わるものではありません。 人は神に変容する事を目指して創られました。 聖マタイは自分の書いた聖書の中で、特に、「イエスの顔は太陽のように輝き」(マタ17章2節)と言う言葉を使い、キリストの帰還について「正しい人々は、その父の国で太陽のように輝く」(マタ13章43節)と同じ言葉を使っています。 私たちの行いの一つ一つの中に、この永遠の意義があります。 私たちの行いすべてが私達の永遠を決めるのです。 神と共に永遠に生きる事を望むか、神なしで生きる事を望むかは、私たちの選びにかかっています。 というのは永遠の命は神御自身だからです。 神は永遠の命の光です。 兄弟姉妹の皆さん、イエスもアブラハムも私たちの出発するように促し、私たちが来るべき復活の喜びの約束を目前にしながら、四旬節の時期を勇気をもって歩き始めるように促します。 しかし、旅のときには、自分で何でも持っていく訳にはいきません。 厳密に必要なものしか持っていけないし、旅の邪魔になるもの全て、旅の歩みを遅らせるもの全てを後に残す為に、えり分ける必要があります。 四旬節についても同じ事です。 私たちの魂を邪魔するものや 神に向かって進むのを邪魔するものを捨てましょう。 これは言うことは易しいが、実現するのが難しい事です。しかし、イエスは主の変容に出会って震え、平伏している3人の弟子たちに「起きなさい。 恐れることはない。 わたしはここにいる。」とおっしゃったように、私たちに言おうとそこにおられます。 アーメン。
四旬節第三主日 2008年2月24日 出エジプト17,3-7 ローマ5,1-2,5-8 ヨハネ4,5-42 2008年2月24日 ヘブライ人は喉が渇いていました。 それは驚くに価しません。 彼らは砂漠にいるのです。 耐え難い太陽の下を、干からびた土地の砂の中を何時間も水なしで歩いていました。 その時、神はモーセに一つの岩から新鮮な水を湧き出させるように求められました。 死の砂漠で、人を生かせる水が湧き出るという事です。 肉体的な乾きが存在するなら、霊的な渇きも存在します。 聖書ではそれを神への渇きと呼んでいます。 肉体的な疲れがあるとしたら、霊的な疲労もあります。 それは、私達を養う事もなく、私達を生き生きさせることもない霊的砂漠の中での、泥沼に陥ることです。 祈る勇気さえなくなってしまいます。 今朝の出エジプトの箇所は、たとえ、このような乾燥のなかでも、涼しさはいつも可能であると教えてくれます。 何故なら、神がそこに居られるからです。 何世紀か後に、この箇所に、キリストのイメージを見て、聖パウロはコリント人への手紙の中で、岩の意味を説明しています。 「ヘブライ人は皆、同じ霊的な飲み物を飲みました。 彼らが飲んだのは、後から一緒に来ていた霊的な岩からでしたが、その岩とはキリストでした」(1コリント10章4節)と。 勿論、ヘブライ人が、生きる水の泉であるイエスが、自分たちを生き生きとさせるのを知らなかったのは、いうまでもありません。 パウロは岩が後からついていったと言う驚くべき事を付け加えています。 砂漠で人々の後を一歩一歩ついて行く移動する岩のイメージは、イエスがいつも私たちの居る所に居られると言う事を意味しています。 パウロは私たちが必要としている霊的な水を見つけるために、とても遠くまで行く必要はないと言う事を私達に言いたいでした。 イエスは私たちのとても近くに居られます。 確かに、同じ事を、イエスはサマリヤの女の人に言われました。 彼こそ生きる水の泉です。 この事を言いながら、イエスはご自分の神性を肯定されます。 というのは、神のみが生きる者の霊的渇きを癒す力を持たれるからです。 誰であろうと、渇きを癒す為には、イエスと共に居るだけで充分なのです。 何故なら私たちの居るところで、キリストは生きる水の泉だからです。 この泉は、私たち自身の外にはありません。 キリストと一致して、私たちは既に、私たち自身のうちに、霊的命の泉を持っていると、イエスは説明されます。 『私の与える水を飲む人は、永遠に渇くことがない。 私が与える水は、その人の中で泉となって永遠の命に至る水が湧き出る」と言われます。 沢山の非キリスト教的宗教は、どのようにして霊的可能性を自分の内に見出すかを教えます。 私たちキリスト者は、これらの力は、私たちの内にありますが、私たちのものではなく、私たちの内にある神の命であると認めます。 そういうわけで、私たちの人生とキリスト者としての祈りは神に関係があります。 私たちに必要な事すべてを神に言い表す時、私たちは神との親密な関係に入り、そしてこの関係は、神に私たちが願った事を受けるか、または受けないかよりも、よほど重要です。 祈り、黙想、沈黙によって、私たちはイエスが私たちに与えようとされるこの水を、私たちの心の最も深い所で汲み取ります。 それじゃ今日私たちは彼と共にほんの少し瞑想しましょう。 イエスはスカルに来られて、疲れていました。 ヤコブが彼の息子ジョゼフに与えた土地にやってきました。このジョゼフを空の貯水槽の底に投げ込んだ後、何枚かの銀貨と引き換えに、兄弟が売りました。(創7章24節) イエスはそのことをよく知っています。 その上、彼は自分の弟子たちの一人が、間もなく、彼を30デナリで売り、他の使徒たち皆が自分を置き去りにするだろうと言う事もよくご存知でした。 そうです。 イエスはその事をよく知っておられました。 特に、彼は、苦難と受難によって救いを全世界に与えることが出来るだろうということ、また、私たちの一人ひとり、男の人にも女の人にも、子供にも老人にも、永遠の命として湧き出る命の水と、命のパンを与えることが出来ることをご存知でした。 丁度、昔、エジプトにおいて、ジョゼフが受けた試練を通して、飢饉から大勢の人々を救ったように・・・ その時は昼頃でした。 イエスは長い間歩かれたので喉が渇きくたくたに疲れていました。 彼は一人の外国人の婦人に、彼女が与えようとしない水を頼みました。 というのは彼女はイエスの足元に空の水差しを置いたまま、逃げてしまったからです。 もうこの時から、彼は他のお昼時に、もっと疲れ果て、半分死にかけてカルワリオの十字架の上に居る事を考えられたことでしょう。 彼は他の外国人、ローマの兵士に、自分の渇きを抑える為の水を空しく求められるでしょう。 なぜなら、サマリヤの婦人にイエスが水を頼んだ時刻と、十字架上で、イエスが「渇く」と言われた時刻は、まさに同じ真昼時でした。 「イエスは、もはや全てが成し遂げられた事を知り、『喉が渇く』といわれた。」(ヨハネ19章28節)とあります。 イエスはサマリヤの女の人に宣言されました。「「もしあなたが神の賜物の事を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが、誰であるかを知っていたら、あなたの方から、その人に願い出たであろうし、また、その人はあなたに、『生きる水』を与えたことであろう」と。 3年後に、兵士の一人が、彼がもう死んでおられるのを見て、やりで脇腹を突き、そこから水と血が流れ出ました。 十字架上でイエスは約束されたもの、彼の愛する心から湧き出る生きる水を与えました! そしてこの水は本当に永遠の命の泉です! なぜなら、イエスはこの受難のしるし、両手の釘跡と両足の釘跡、そしてまた同時に脇腹の貫かれたしるしをもって、復活しようと望まれました。 この神秘的な開かれた傷から、そこにトマスが手をいれたのですが、神の恵みの水はいつも湧き出ます! 今日の福音のテキストが 復活までイエスと共に歩み、彼の命をよりよく生きるために、この泉から絶えず水を汲み出す助けとなりますように! アーメン。 四旬節第4主日 2008年3月2日 サムエル上16,1;6-7;10-13 エフェソ5,8-14 ヨハネ9,1-41 人間的な見方をすれば、目が青くて赤毛の少年ダヴィデが選ばれるチャンスは全然ありませんでした。 しかし神は人間的な外見で判断せず、心を見られます。 ご自分の民の光となるためにダヴィデに聖霊を注がれました。 そしてダヴィデは、その王としての権威によってではなく、神との親密さのうちに養われた心のゆえに、光となるのです。 キリストと共に生きるために神から選ばれた私達は、神と共にいる親密な領域を自分のうちに掘るように促されています。 それは聖パウロが「顔の覆いを取り除かれて、私たちは皆、鏡のように主の栄光を映し出す」(2コリ3ー18)が言っているように、世の光となるためです。 この目の見えない人をイエスは見ました。 彼のうちに、イエスはこの世ではっきりと見ることが出来ず、暗黒の世界に、頑固に留まっている生まれながらの盲目である私達皆を見分けています。 癒された盲目の物乞いは、とうとう光を見ます。 しかし彼の喜びは短い間しか続きません。 と言うのは、彼は自分が出て来たばかりの暗黒よりも、もっともっと深い他の暗黒と闘わなければならなかったからです。 まず、隣人たちの疑い、次いでファリサイ人から繰り返し投げかけられる拒否、最後には身を隠そうとする両親の恐れなどです。 人が彼を嘲笑する時、昔の盲目者は自分の信仰が大きくなるのを感じました。 勇気に溢れて彼は自分の信仰を宣言します。 そこで人々は彼を会堂から追い出しました。 人々の不信と侮辱にも拘らず、彼は自分の目を見えるようにした方への勇気に満ちた証をします、が、彼はまだこの方を知りません。 ヨハネが語っていることは、イエスのうちに光の源を発見した一人の人の信仰と良識に対して、反対する者の支離滅裂さを指摘するすごい皮肉の話です。 このテキストは特に初代キリスト者の困難をも反映しています。 事実、ヤムニヤで開かれたファリサイ人の有名な集会の結果、紀元80年頃には彼らは信仰の故に会堂から追い払われました。 ヨハネのテキストの中では皆恐れています、それは会堂から除名される恐れ、特にあまりにもよく分るこの奇蹟についての恐れです。 神がモ−セに「一体だれが目がみえるようにするか?」と言われた事を覚えていますか!(出エ4−11) この奇蹟はイエスが神であることを示しています。 盲目の人はよく理解して、恐れることなく、ファリサイ人をイエスの弟子になるようにとさへ誘ったのです。 なぜこのような奇蹟が行なわれたのでしょうか? なぜなら、イエスはこの奇蹟によって、彼が神であり、世の光であることを私達に分らせようと望まれたからです。 というのは彼だけが、信仰の本当の見方、神の見方である真実の見方を人に与える事が出来るからです。 実際、信仰が人に神を見る可能性を与えます。 視力を取り戻した者は、あるやり方で、神のこの見方を自分の体の中に感じます。 彼は自分のうちに、見ると言う単純なことで、神の全能の存在を感じました。 この単純なことが全ての恐れを彼から追い払います。 彼は非常に近くからこの事を見て、知っていたので、それを証します。 この福音の筋道は認識すると言う事であると確認しましょう。 もしこの福音の完全なテキストを読むなら、「知る」「知らない」「知らずにいる」と言う表現を何回も見つけます。 この人は他の人達が受けなかった何事かを受けました。 彼はイエスが自分の人生に入ってきた事を、また自分がキリストの本物の証人となった事を知りました。 しかしそれは、キリストについても、彼の多くの奇蹟についても語る事を聞こうとはしないファリサイ人にとって邪魔な事でした。 彼らにとって、イエスは神から遣わされた人ではなかったのです。 最近の科学的な解説を信じるとすれば、視力を失うとは、自分のパーソナリティを失うことだそうです。 実際、私達の目の虹彩は、世界中の殆ど全ての男性と女性を区別する事が出来ます。 同様に、この意味で、盲目の人に視力を取り戻させることは、その人のパーソナリティのすべてを返すと言うことです。 イエスによって癒された盲目の人は、本当に一つのパーソナリティを受けました。 ただイエスだけが彼を新しい人にすることに成功しました。イエスが誰であるかを知っている私たち、キリスト者にとって、ますます光り輝くためには、私たちの眼差しをキリストの上に益々ぴったりと注がなければなりません。 私達の信仰は神の命の光であり、この光は私達の日ごとの生き方のうちでの行ないや言葉を通して、証言し、広めなければならない光です。 私達の沈黙の祈りは、個人的なものであろうと、共同体的なものであろうと、いつも私たち自身とそれを必要としている皆にとっても、光の源です。 この四旬節の終わりに、私達皆が神の栄光の輝きであることが出来ますように、ひたすら願いましょう! アーメン。 四旬節第5主日 2008年3月9日 エゼキエル37章12−14節 ローマの信徒への手紙8章8−11節 ヨハネ11章1−45節 3週間前から聖ヨハネは私達が信じるか、信じるのを拒否するかを選ばなければならないと、選びについて話しています。 この事を、ご変容の話、サマリヤの婦人の話、生まれつきの盲人の話、ラザロの復活の話の中で語っています。 私達は命を選ぶか、死を選ぶか、イエスを信じるか、イエスを殺すか、を選ぶように促がされています。 まず、マルタの態度を見ましょう。 彼女は兄弟の死に苦しみ、すっかり落胆し、イエスの来られるのがあまり遅いので、当然、いらいらとしています。 しかし、彼女は深い信頼を示します。 私達は苦しむ時、何時も友だちが傍にいてくれるように望みます。 それは心に重くのしかかっているものを全部話すためで、その時私達は胸が軽くなるのを感じます。 どうしてでしょうか? 理由は全然ありません。 友達は解決をくれるわけではありません。 ただ聞いて、同情するだけです。 しかしそれで充分です。 イエスは何も約束せず、彼女に信じるように求め、マルタはイエスが彼女の傍で、嘆きを分かち合いながらそこに居られるだけで慰められます。 イエスに対する彼女の信仰は、兄弟の命を取り戻しました。 「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11章5節)と述べられていますが、ヨハネは私達にイエスの人間性とその愛情、悲しみ、感動と涙を示したいのでした。 沈黙の涙、私達がユダヤ人のお葬式の時に聞く、騒がしい嗚咽とはとても違います。 イエスは苦しみますが、自分自身を制御しておられます。 しかし、イエスは何故泣かれるのでしょうか? イエスは復活について話されたばかりですのに、友達とともに、泣いておられる! 泣くとは、ときには愛したり祈ったりする最高のやり方です。 イエスはひとり、ひとりの人の死を前にする神の嘆きを示されます。 なぜなら神は命であるからこそ、誰の死も望まれません。 愛し合う者たちの別れである死を前にして、イエスは愛をもって神の涙を注ぎます。 しかし同時にこの涙を通して、イエスは間近に迫ったご自分の死を考えています。 キリストは命そのもの、命の主、命を与えるためにこの世にこられた方です。 彼は憎しみと嘲りの真只中で、一人で死に立ち向かわなくてはなりません。 なぜなら、彼が愛した人たちは皆、彼から遠くへ去ってしまうからです。 人間と共に泣く事で、人間と共に苦しむ事で、イエスは苦悩と死に、また生きる事を妨げるものすべてに、敢然と立ち向かいます。 しかし、ラザロに命を再び与えながら、イエスは死に対するこの戦いのうちで、ご自分と一緒に、私達をこの巻き添えにしようと望まれます。 彼は命の勝利を私達に示し、復活に対する信仰を与えようと望まれます。 イエスはご自分の命を自由にお与えになりながら、ラザロだけを死から救おうとは望まれません。 イエスが死と死に導く罪から奪い取ろうと望まれるのは人類全体です。 死に伴う腐敗の恐ろしい匂いは、罪が私達をどんな所へ突き落とすかをよく示しています。 さて、イエスが愛された罪人のラザロは、死の国の最も深い所で、イエスの叫びを聞きます。 これは友の叫び、死に対する勝利の絶叫である十字架上のイエスの叫びそのものです。 この叫びはまた、誕生の叫びでもあります。 「出てきなさい! 死の胎内から出なさい!」と。 ラザロは布で巻かれたまま墓から出てきます。 これは彼がもう一度死ぬだろうという事の印です。 これに対して、イエスが復活される時、イエスはすべての死に結ばれたものから開放された事を示すために、ご自分の墓の中に遺体を包んだ白衣を残されます。(ヨハネ20章5,6節) イエスの使命はここで終わり、ラザロの使命はここで始まります。 彼はイエスが命の泉であると証するでしょう。 だからこそ、祭司長たちは黙らせるために彼を殺したかったのです。 一言でイエスは既に腐敗し始めた死者に命を与えました。 彼の言葉の力とラザロの復活は、彼が神であると同時に人間である事をはっきりと示します。 祭司の責任者たちが信じるのを拒否したのはこのことです。 信じるよりもむしろ、キリストとその上にラザロをも殺すように決めます。 「私は復活であり、命である。 私を信じる者は決して死ぬことはない」(ヨハネ11章25節)とイエスは言われました。 この命は遠い未来の事ではなく、他の世界のことでもありません。 これは今日、信じる人に与えられています。 この命は無傷で死を通ります。 というのは神と共に永遠の命と一致しているからです。 私達が宣言する信仰はこれです。 アーメン。 枝の主日 2008年3月16日 イザヤ50章4−7節 フィリピの信徒への手紙2章6−11節 マタイ26章14−27章66節 この枝の主日と主の受難から、私達を復活にまで導く聖週間に入る事になります。 典礼においては、今日、この聖週間の要約が私達に与えられます。 確かに、私達は枝を持つと、エルサレムでのイエスの熱狂的な歓迎を思い出します。 さらに私達は受難についての長い話を聖マタイと共に黙想しました。 金曜日にはこの黙想に私達の断食を結び合わせて聖ヨハネと共に再び黙想を始めましょう。 しかしその前に、主の晩餐を祝うために、ちょっとの間私たちは後戻りしましょう。 これは特に聖木曜日を祝うのと同じことです。 最後に聖土曜日の典礼の朗読を通して、私達の信仰の頂点、イエスの復活にたどり着きます。 枝の主日の喜びのうちに、今日、イエスに従おうと来ている人は沢山です。 良いことです! しかし典礼年の最も重要な日にあたって、奉仕と自己犠牲の道をイエスに従っていくために、私たちのうち何人が、これに続く3日の間、参加するでしょうか? もし私たちがイエスと同じ道を歩むなら、遅かれ早かれ私達はイエスの十字架に出会わなければなりません。 受難と復活のない枝の祝日は一番重要なものを脇において通り過ぎる事です。 しかし枝の祝日のない受難は、あまり良くありません! それは苦しみの中に不健全な方法で喜びを見出す事です。 それは、私達を救うキリストの苦しみではなくて、救うのは苦しみが示す愛である事をよく理解しましょう。 キリストの十字架は、神の私達に対する愛が痛ましくも具体的に表わされたことで、私達の誇りです。 キリストの手、足、脇腹の傷を観想することは、私達を救われる神の愛を具体的に見ることです。 この観想には何一つ不健全なものはありません。 キリストの傷を見ることは、ただ信仰と感謝のために差しだされた場所を黙想することです。 イエスは毎日私達と共に歩まれます。 彼の人生はゴルゴタで止まりません。 イエスは彼の復活の命の中に私達を引きずり込みます。 イエスは私達の人生を彼の命に毎日結ぶように求めます。 私達の人生は、喜び、希望、失敗、苦しみ、恐れ、暗闇と光などすべてを含みます。 もっと、もっと、この教会で、聖霊と全教会の交わりのうちに、キリストと共に、ひとつの体、魂、霊にしかならないことを学びましょう。 ミサ聖祭の最中に、神が結んでくださるものを、日常生活のやり方のうちで離れ離れにしないようにしましょう。 暫く黙想して、イエスが私達にこの神秘をおしえてくださるようにしましょう。 アーメン。 トップページに戻る